過去イジメ 病院編を再続行!

待っていない人も待っていた人も、「お待たせしました」

 

過去イジメの記録を再続行することに。

 

昨日は、実母の命日であった。(寒いときに亡くなったものだ)

1998年1月20日。

あれから、16年。

時が経つのは、残酷で優しい。

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さすがに、クリスマス&正月。母親の命日が過ぎるまでは、「懺悔室」に入室する気がなかった。直近イジメの被害届ならすぐ書けるが、過去の暗黒に時代(現在も継続しているが)を再び想起することは、かなりヘビーなことである。

 

だが、「これらの悪行をうやむやにするほど、ハリーの正義感はやわではない!」

白日のもとにさらし、最後の審判の前に、社会的制裁を加えたい!

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これは「恨み」からでなく、「正義感&被害者心理」からである。

「泣き寝入りなどするか!」

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ここで、すでに書いていたはずの病院編が「レクターのサイバー攻撃で編集&削除&未公開」されているようなので、あえて、極悪非道の最右翼!の病院から、またまた続行することにしよう!

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妨害なく公開されていると思われるところから復唱することにする。

 

 ●膵臓疾患で「自覚症状ばりばり」なのに、「問題ない」と診断した「金で動いた病院」

 

2000年

①4/14金沢文庫病院

②4/17金沢病院

③4/19順天堂大学病院

★4/20 「第1回目の毒物混入事件」「体の硬直」「息ができない」

④4/20横浜南共済病院 救急車で ⇒順天堂の次に日

⑤5/23労働省の「健康診断」でも。

 

ここまで、このサイトのブログに書きこしたと思う。

詳細は、「右サイトのカテゴリーの病院編」あたりをクリックすれば、過去の書き込み部分が見れると思う。

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以下、自己診断。(医者が病名を隠ぺいするので、仕方なく)

 

2000年4月に「膵臓疾患」で「発病」。

原因1)「マンション購入&引っ越しの過労&ストレス」

☛誰も手伝ってくれなかった。(友人&実家)

 

原因2)「赴任先(中央労働委員会)でのイジメ&ストレス」

☛「はめられた転勤(希望外の激務の定例外の配置)」と「組織ぐるみのイジメ」と

 

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ここでは、以前にも書いたが、ハリーが考える「医者の2大責務」(ハリーの持論)を再び確認しておこう。

 

★医者の責務(ハリーの持論)

①「正確な診断と告知」

②「適切な治療・処置」

この二つを含めて「医療」と定義する

 

つまり、①の段階で、悪意を持って「病名を隠ぺい」したり、「病名を誤告知」したりすることは、「それ自体、医者として、アウト」ということになる。

 

さらに、「適切な治療を行わない」や「誤った処置」をしたり、「治療を要するにもかかわらず告知せず放置した」場合は、②も満たさない。

 

つまり、①と②を「悪意を持って、満たさない」場合、「医者としては失格」になるばかりか「医療ミス」ではく「医療不履行」や「医療放棄」として「刑事事件にもなりうる?」ところまで行くか。

 

「医師資格はく奪」になるかも。

 

これは「ミス」ではなく「悪意」であるから。

 

もちろん、「カネとレクターからの指示」が「関与している」ことは、間違いない!

 

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ここのところは、以前も書きこした部分である。

 

さらに、注目すべきことは

 

★2000年4月に、「想定外の異例の激務の部署に赴任」した「中央労働委員会」との関係性だが。

 

「中央労働委員会」は「労働省(現在は、厚生労働省)の外郭団体」である。

 

この組織は、間接的にハリーと関係があった。

 

それは、「大学時代のゼミ」までさかのぼる。

 

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大学生の時、3年・4年の時の「ゼミの教授」が「中央労働委員会の委員」であった。

 

このゼミは、「労働経済」が専門で、「マクロ経済学の労働市場」を研究する人気のゼミであった。

 

たしか同期の生徒は、男17人くらい女2人の構成で、その当時のゼミの人数からすると大所帯であった。他のゼミは、教授が1人生徒が1人とか、生徒が一人もいないゼミなどもあった。

 

ハリーの大学は、生徒の数に対して教授の数が多かったので、ゼミは生徒優勢の売り手市場であった。

 

ここでも「需要と供給の経済市場の基本」があてはまる。

 

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経済にさほど興味がなかったが、予備校時代、「このままでは理系では合格無理」との決断から「理系から文系にシフト」。その逆は、技術的には難しい。「理系から文系への変更は、意外と容易である」。「英語を軸に、社会科の科目を数学に変更すればいいことだから」

 

そこで、特にやりたくもない「経済学部の進学」とあいなった。

 

なぜ、このゼミを選んだからかといえば、「労働経済がしたかった」わけではなく、「就職が良好で面倒見がいい教授だった」からである。

 

大概の学生は、「大学院に行く人はのぞいて、就職を視野にゼミを選ぶであろう」

 

当時は、「男子大学生は、良好。 女子大生は、氷河期」の時代。

 

女子大生は、「短大生かコネ」がはばをきかせていた。

 

つまり、東大卒でも女子であれば苦戦。

 

100社資料を請求して、面接にこぎつけるのは5社程度。

 

 

男女機会均等法以前の「女子 氷河期の時代」」であった。

 

 

女子であれば、「公務員」か「教員」が「ベストの時代」

 

 

 

おっと、飯だ!